高村光太郎「智恵子の半生」

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあろう。大君の愛である事もあろう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。

製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。

ひたすら身につまされる。

本数を稼ぐためだけに企画されたような、乱立する「会社の垣根を越えたコラボ!」、安易なセクシャル表現、ゴア。

商業ベースで作品を作る以上、マスを意識するのは当然だし、そこを無視するのは話にすらならない。だけど、お客さん一人の顔を見ながら(イメージしながら)考えたのか?と疑問を感じずにはいられないような品位の感じられないモノが最近多すぎる。何百万本売ろうとする気概は、一人の心を震わせようとする気概と両立していなければならない。

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