無題

以下はただの与太話だ。

伝説のRPG『moon』20年目の同窓会──ラブデリックメンバーが語る、ディレクター3人という奇跡のような開発スタイル…そして「あのころ」の始まりと終わり【座談会】

この座談会を読んでいて、職場だってのにひとりボロボロと泣いてしまった。
自分の今の人生と、自分自身を形成する大きな要素となった人たちが、当時どんな熱量でゲームを作っていたのかを改めて読んだら、もうダメだった。

自分は、かつて縁あって上記の座談会に参加されている中の、(欠席していた西さんも含めて)木村さんを除いた全ての人と一緒に仕事をしたことがある。
特に工藤さんや倉島さん、安達さん達に混じってゲームを作っていた、23歳の誕生日を迎えた日から25歳の夏までの日々は、今でも忘れられない。

当時、ちょうどそれまで働いていた会社を辞めてぼーっとしていた自分は、ふと思い立って『MOON』『UFO』(自分がゲームを作る仕事に就こう、と覚悟を決めたのはこの2作がきっかけだ)『エンドネシア』そして『コロボール2002』を作った人たちと何かを作りたくて門を叩いた。そして書類を提出して数日のうちに面接・仮採用となった。

前職では携帯電話向けのゲームながら、それなりに高評価のゲームを作っていたので、自分の実力にそこそこ自信はあったのだけど、正直言って前職とはレベルが違った。才能も、覚悟も、全てのレベルが違いすぎた。

どんな小さいデモでも絶対に”繋ぎ”でBGMを流さず、キャラの演技を1フレーム単位で何回も調整する「間」のこだわり。

居間ではじまる打ち合わせで、呼ばれていなくても、自分が直接関係が無くても気になったらガンガン口を出す環境と当事者意識。

企画もデザイナーもサウンドも(そして時にはプログラマーも)、互いが互いを驚かせようと、仕様よりも「より面白い」ネタを”仕掛け”てくるプライドとクオリティ。

セーブ機能だったりボタン入力待ちUIだったり、純粋なシステム周りについても「どうにかして面白くできないか」と数人でうんうん唸る、もはやパラノイアと紙一重な貪欲さ。

そしてQuake3のLAN対戦からはじまる毎日の仕事。(安達さんのレールガンの精度はマジでやばい)

最初は本当に太刀打ちできず毎日ボコボコだった。それでもなんとか食らいついて1ヶ月、半年、1年と、必死でゲームを作った。

怒られる回数は少しずつだけど減っていき、最後は末席ながら、チームの一員として認めてもらえるようになった。

途中、工藤さんに「言葉のセンス結構あるよ」と褒めてもらえて、ゲーム内アイテムのほぼ全部の名称、説明、一部キャラのイベントをゴッソリ任せてもらえるようになったのは本当にうれしかった。

ゲーム開発を生業にしてから10数年、師と呼べるひとは何人かいるけど、最も才能があって、最も自分が影響を受けているのは確実に工藤さんだ。記事でみなさんが言っているように、あまり露出に積極的でない事もあって一般的には知名度はあまり高くないのだけど、この人は正真正銘の天才だと思う。

自分も30歳をすぎて、国内でビデオゲームを作り続ける事にくじけそうになる日は少なくない。それでもまだ辞めずに、前線に立ち続けるのはいくつか理由がある。

前述の時期から少し過ぎた頃、別のプロジェクトの打ち上げで二人して泥酔した時、腕を組んで言われた、「お前面白いんだからゲーム作り続けろよ」という言葉が今も強く胸に刺さっているのが、そのうちのひとつだ。

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